75年前の7月16日、アメリカ西部ニューメキシコ州の「トリニティ・サイト」で世界初の核実験が行われ、その3週間後に、広島と長崎に原爆が投下された。この実験についてトランプ米大統領は次のような声明を出した。 「このすばらしい偉業は、第二次世界大戦の終結を促し、世界の安定と科学技術の革新、経済的繁栄の時代を開始したマンハッタンプロジェクトの集大成だ」(毎日新聞) あのとき日本にはもう戦う力は残っておらず、敗戦は明らかだった。2発の原爆がどれほどの惨禍をもたらしたか、大統領は知ろうともしていないようだ。 日本原水爆被害者団体協議会は「広島、長崎の被爆者は、腹の底から湧き上がる怒りを抑えることができない」と抗議し、発言の撤回を求めている。 「使える核」へと核体制の見直しが進むなか、わたしたちは大統領が暴走して明日にも「核」のボタンを押すのではないかという恐怖と隣り合わせにいる。 コロナ禍で人影が途絶えた街を歩きながら、60年前に観た映画のラストシーンが蘇った。建物や道路は無傷なのに、電車は止まったまま。広場にキリスト教の集会に使われた横断幕が風にはためいている。「兄弟たち、まだ時間はある」。でも、人は誰もいない。
スタンレー・クレーマー監督の「渚にて」(On the Beach)は1959年に製作された。原作はイギリスの作家ネビル・シュートが57年に発表した近未来小説。米ソの冷戦下、世界が明日にも核戦争に突入するかもしれないという危機感を背景に、その危機感が現実になって人類が死滅するというストーリーだ。 日本の劇場公開は60年で、安保闘争が沈静化したあとの、しらけた気分で観に行ったのを覚えている。哀調を帯びた音楽、海辺を歩くグレゴリー・ペックとエバ・ガードナーのシルエットが印象的だった。60年ぶりにDVDで観て、モノクロ画面が新鮮だった。そして、当時はよく理解していなかった映画のメッセージに気がついた。 全面核戦争で北半球が放射能で汚染され、アメリカ合衆国はもはや存在しない。潜航していて難をまぬがれた米国海軍の原子力潜水艦スコーピオン号が、オーストラリア・メルボルンの港に浮上する。 上陸した艦長はオーストラリアの海軍士官のホームパーティに招待される。客のひとりが言う。
Source : 国内 – Yahoo!ニュース